スタイル

自分のスタイルを確立するために僕がしなければいけないことは、まず書くことだろう。それもブログや日記ではなくてストーリーを書くことだ。書き続けなければいけない。スタイルが確立されるまで。僕は自分がどんなスタイルの文章を書けるのかまだ掴めていない。ただ、読みにくい難解な文章は書きたくない、というよりも読みたくない。僕が描きたいストーリーは美しい話だ。だけれど、ハッピーな話でもない、砂時計の砂が落ち終わったときに、時間を計っているわけでもなく見つめていただけのような話だ。なぜ、砂時計の落ちるのをじっとみていたかはわからない。ただ、砂の一粒一粒がサラサラしていて綺麗だったからということしかできない。そんな話だ。それを美しいと思えることを文章に表せるような僕のスタイルを確立させるためには、まず絶対量が必要だと思うのだ、とにかく僕はなんでもいいから書かなくてはならない。どうせなら面白い話を書きたいものだ。幸いにも、少しばかり時間を作れるようになってきた。僕の人生も少しばかり髪に雪が降り始めた時期だ、雪が積もる前に砂漠になってしまうかもしれないけれど。僕のスタイル、どんなスタイルなんだろうか?書き続けていくうちにその答えはきっと出るだろう。時間は僕に味方をしてくれるだろうか?天気は?未来は?健康は?全てが僕に味方をしてくれることはあり得ないだろう。だけれど、僕は落ちるところまで落ちたと思っている。だから、これからはもう登るだけだと思っている。一方で、まだ最悪なことは終わっていないなくて、最悪なことがドアをノックする日はまた来るかもしれないとも思っていて、密かに緊張感をもっている。晴れた日の午後に見晴らしの良いテラスで紅茶を飲んでいたとしても、どこかでそんなことを考えている。達観しかかっているような気がしているだけだと思うけれど。そんな感じで、最悪な日々がいつ僕を訪れようとも、影のように僕と一緒についてまわっていようとも、前に進むことしかできない。穴に落ちないように、つまらない石ころにつまずかないように、前に進む。

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なかなか上手くはいきません

何もない道をひとりで歩き続けていくのかと思っていた。よくも悪くも。ところが、そうではなくなるかもしれない。ぼくが決めることではないが、どちらにも転びえる。その抗えない時間の波の中で、自分でチャンスを作り、自分でそのチャンスをものにできるかがぼくの今の生きる糧というか、挑戦のようなもので、生きる意味だろう。誰かの為に生きるのもひとつだが、ぼくは自分のために生きるのもまた正しいと考える。ぼくは誰かのためだけに生きたくはない。何か辛いことや苦しいことがあったときに、都合よく誰かのせいにしてしまうから。ぼくの場合、いいことも誰かのためにしているわけではない、自分にためにしているに過ぎない。名声は欲しいのかはよくわからない。だけれど、自分に納得のいく生き方をして、後悔のないように生きていくことが今の生きる意味である。

まずは朝早く、いつもより30分早く起きることが、課題である。それがなかなか出来ない。色々と試してみているが、情けなくも出来ないのだ。今朝など、1時間早く目を覚まして、トイレにも行ったのに、30分早く起きたかったので、もう30分寝ることにしてベッドに入り直した次第である。

もちろん、30分で起きるはずはない。いつも通りの時間に起床した。

なかなか上手くはいきません、いろいろと。

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しずく

「ものを持てる数は決まっていて、ひとつ手に入れれば、ひとつ手から離れていく」

そんな歌の歌詞を思い出す。

ぼくは少なくともひとつ失った。なにか大事なものだ。それが表面的なものか、内面的なものかはわからない。一見すると表面的なもので、簡単に理解できる類のものだろう。

ボールが頭に当たって血が出るように。それは見るからに痛そうだから誰にでもわかる。だけれど、傷が塞がってもいつまでも痛みは消えない。それはぼくが失った内面的なものと多分同じ類のものだ。感覚的に。

ぼくは持ちきれなかったいくつかを手放した。というより、手からこぼれて落ちていった。

手のひらの指と指の間の隙間をいくら見てみても、そこに何も残っていない。ひとしずくも。

蛍の光のような暖かさは、もうそこには残っていない。

 

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ポールヒマラヤンムスクとスワロウズ

嵐が過ぎて、復旧作業が終わり、さぁ始めようと思って期待をして朝の清々しい光を期待して窓を開ければ、曇った暗雲とともに嵐がくることがわかった。夜には、また新たな不安で枕を濡らしていた。ぼくはもっと強くならなければいけないはずなのに、気持ちを抑えることはできなかった。

だけど、時間とともに新しい船出とでも呼ぶような、不安と期待が入り混じった気持ちになりつつある。庭をバラの花でいっぱいにして、夏には綺麗な花を咲かせたい。と思うが、バラの花は夏に咲くのか?まずはそこを調べることからスタート。ポールヒマラヤンムスク。5月にはまたツバメがくるかもしれない。スワロウズ。

未来のことを考えるとクヨクヨしてもいられない。それにお金を増やさないといけない。ぼくはもっと勉強しなければならない。

時間に追われないようにしながら、ぼくはぼくにできることをひとつずつ積み重ねる。きっと、時間に追われることもあるけれど、ぼくはぼくを見失わないように、挫折と後悔を胸に。少ししょっぱい海に顔をしかめながらでも泳ぎ続けていく。

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パチパチポトリ

ぼくが行なっている一挙手一投足が次のぼくの大きな転換点に関わっている、とぼくは思わない。というか、全ての断定的な言い回しが好きではない。永久だとか永遠に始まる希望的観測に目を輝かせて“のほほん”としている人が好きではない。それが純粋無垢な子のものであるならば話は違うとして。ノホジンは永久だとか永遠に憧れて生きていき、どこかで自分の意図と違う領域に入っても気づかないふりをする。

“見渡す限り明瞭な大地をどこまでも歩いていける”

そんな安易な考えを胸に進むことは悪くない、ただし、それは幻以外の何ものでもない。ある日、明瞭だと思っていた大地が、一夜明ければ、ドロドロの沼の入り口だと気づく、しかし、ノホジンは進むしかない。ドロドロでもギトギトでも、あるいはデロンデロンであろうと。それは、辛くても、悲しくても、進まなければならない。運命だと美談にするのもノホジンの得意なことの一つ。

ぼくは啓示的なことは信じない。ものごとは偶然的に起こって、偶然的に収束し、静かに音もなく終わる。また同じことを繰り返す。線香花火みたいに。何かのきっかけで、パチパチと火花をあげ、終わるときは“ポトリ”。それでおしまい。また、何かのきっかけでパチパチしてポトリ、パチパチしてポトリ。パチパチとポトリに相関性はない。ある人は風やら湿気やらに理由をつけてパチパチとポトリの関係を暴こうとするが、落ちるタイミングも、落ちる速度も偶然に起こっていることであり、そこに理由をつけるのがノホ人の特徴だ。

 

ぼくが、寿司屋の締めにタコと真イカを頼んだことも、パチパチとポトリ以外の何ものでもない。

 

パチパチしてポトリ。

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